南光坊天海 (185)
南光坊天海 (185) 「七月、織田主水信高(昌澄)ハ、信長ノ連枝武蔵守信行ノ孫ニシテ、七兵衛信澄ノ子也。二歳ノ時、父信澄舅ノ明智光秀ニ與シ、大坂城中ニ亡滅ス。時ニ信高ノ乳母カ懐ニ入テ辺土ニ隠シ、成長ノ後、藤堂高虎カ許ニ隠ル。 庚子ノ乱(関ケ原の戦い)ニ、高虎カ留守トシテ豫州今治ニテ戦功ヲ顕シ、其後秀頼ニ仕ヘ戦功アリ。茶磨山下ニテ桀然タル退口、神君敵ナカラモ其勇敢ヲ感セラレ、御家人ニ列シ、給ハル。(其名ヲ三左衛門ト改ム)彼母ハ此年大坂ノ簾中ニ仕ヘシカハ、乱後簾中ノ御吹挙モアリシト云々。」(「武徳編年集成」) 「昌澄の母(光秀娘)が、素養の高さを買われて、千姫の輿入れに付き添った。」という話を根拠不明といったが、調べると「武徳編年集成」に記されていた。恥ずかしながら、光秀の四女は、信澄とともに亡くなったと思い込んでいたので、まさに目から鱗である。 「武徳編年集成」は、江戸中期に書かれた家康の伝記集である。寛保元年(1741年)に徳川吉宗に献上された。 一次資料が少なく、覚書や家伝をもとにしたものが多いので、史料としての価値は良質とは言い難い。しかし、いわゆる「軍記物」とは違い、一通りの調査をしている点で優れている。将軍に提出したものであるから、徳川家に都合の悪いことは書かれていない。 昌澄は父・信澄が殺された時、まだ二歳で乳母に抱かれて逃げ落ちた、と書かれているので、やはり大坂城にいたようである。「辺土」に隠れ住んだというから、田舎に身を隠したのであろう。母親のことが書かれていないが、恐らく同行していたと思われる。 昌澄が成長し、ほとぼりも冷めたころ、旧家臣の高虎のもとに隠れ住んだという。秀吉生存中は世に出られなかったのであろう。 関ケ原戦役で、今治で戦功があり、高虎は秀頼に推挙したようだ。 大坂の陣では、茶臼山の殿部隊として見事な采配を見せたようで、家康の目に留まったという。 さて、重要なのはこれからである。 「彼母ハ此年大坂ノ簾中ニ仕ヘシ」とある。つまり昌澄の母(光秀四女)は大坂の「簾中」に仕えていたのである。「簾中」とは、「貴人の正妻」という意味で、この場合「千姫」のことである。 さらに「乱後簾中ノ御吹挙モアリシ」とある。つまり「乱」(大坂の陣)が終わった後も、千姫の「御吹挙」を受けたという。「御吹挙」は、「推挙」とほぼ同じ意味で、引き続き「侍女として仕えた。」という意味だと思う。 つまり光秀の四女は、この時代も生きていて、千姫に仕えていたことになる。 「又、織田主水昌澄は今度籠城しけるが天満口の挙動勇々敷なりとてゆるさるる。その母は大坂の北方につかへたりとぞ。」(「台徳院殿御實紀」) さらに、「台徳院殿御實紀」にも、「その母は大坂の北方につかへたり」と明白に書かれていた。「北方」とは正妻のことである。 ここから考えられるのは、やはり光秀の四女は、千姫輿入れのとき、江戸から付き添いとして同行したのであろう。 では、だれが彼女を秀忠に推挙したのであろうか。恐らく候補者は二人であろう。それはお福と高虎である。 昌澄を秀頼に推挙したのは高虎である。しかし、四女を秀忠に推挙したのは、人脈から考えて、お福ではあるまいか。確かに光秀の四女は、素養も高く、幾多の修羅場を潜り抜けてきた女性であることは間違いないであろう。 それにしても、大罪人の子孫である明智一族を、徳川家がこれほど重用するとは、本当に不思議な話である。木村高敦『武徳編年集成 93巻』[50],刊,刊年不明.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13233225 (参照 2025-06-11)