警職法改正反対運動。1958年9月、開会中の第39回国会に政府が突然、
警察官職務執行法改正案を提出すると、野党・社会党は「警察国家の再来だ」
と反発し、(当時は珍しくなかった)国会大乱闘となった。議会外の労組・市
民団体なども抗議運動を展開し、最終的に同改正案は廃案となった。 ©NHK.
【1】 「世界の終り」という本
翻訳本↑には『新しい学――21世紀の脱社会科学』というタイトルが付けられていますが、ウォーラーステインの原題は:『The End of the World as we know it 私たちの知っている世界・の終わり』です。藤原書店がどういうわけで、『新しい学』などという・専門家気取りの人間しか惹きつけられない題名に変えたのか、私にはわかりません。原題の「世界の終り」のほうが、ずっとインパクトがあって売れただろうに。
ともかく、その第Ⅰ❸章が「東アジアの勃興、あるいは 21世紀の世界システム」であり、それに続いて、「第❸章のための終曲部 いわゆるアジア危機【長期持続におけるジオポリティクス】」という短い章が、第❹章とのあいだに挿入されています。
章題から想像できると思いますが、「東アジアの勃興」とは、1970年代から世紀末に至る時期に、「資本主義世界」全体としては沈滞していた〔コンドラチェフ循環の下降B局面〕にもかかわらず、「東アジア」とりわけ日本は昇龍の勢いで強大化していたということ。そしてその隆盛は、21世紀にも続いていくという展望が語られます。ただし、ウォーラーステインがそう言うのは、世界の他の地域と比較しての〈相対的な〉趨勢であって、「東アジア」内部に問題がない、ということではありません。
それに対して「終曲部」は、20世紀末にアメリカの新聞をにぎわした「東アジア危機」を扱っていますが、ウォーラーステインの見解では、この金融危機〔日本の 1991年「バブル崩壊」のあと、1997年~ タイ,インドネシア,韓国,日本等を襲った為替レート暴落と金融恐慌〕は「一時的事件」にすぎない。
こう言うと、なんと楽天的な東アジア観だろう。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」か?! と思われるかもしれません。たしかに、ウォーラーステインが「勃興」と呼ぶ 1970-80年代の・「勃興」とは懸け離れた厳しい庶民生活を知っている私たちには、彼の叙述は歯がゆく思われます。「勃興」そのものが孕んでいた構造的な問題を、ウォーラーステインは正面から把えているとは思えない。ことに、彼のタヒ後の現在における日本の「出口の無い沈滞」ぶりを見れば、「勃興」よりも、「墜落」の原因となる陥穽をこそ語っておいてもらいたかった、と言いたくなります。
しかし、彼の遺した議論を今読む意義はないのか、と考えてみると、それは、日本、あるいは日本と中国ではなく、「東アジア」を一体として考えている点だと思います。その点も、必ずしも十分ではないのですが、欧米的な “冷戦” の枠で、あるいはアメリカの “中国包囲網” の戦略に踊らされて、「東アジア」を分断してしか把えられない人びととは、一線を画していると言えるのです。
全農林警職法事件・最高裁判決(1973年4月25日)。1958年に起きた警察官職務
執行法改悪反対運動の一環として全農林労働組合が傘下組合に下した2時間
時限ストライキの指令を、国家公務員法違反(違法争議の煽り)として有罪
・罰金に処し、「公務員の争議禁止は労働基本権侵害・違憲」との主張を否定
した。1960年代に相次いだ労働基本権承認判決の流れを大きく変えた
この最高裁判決は、第2次大戦後 30年間の民主化の時代から、これ以後
半世紀間の反動の時代へと移る分水嶺となった判決だった。
【2】 東アジアの「組み込み」とジオカルチュア
『近代世界システムは、資本主義世界経済として存在する。それは、システムが無限の資本蓄積へ向かう動因に支配されている〔…〕ことを意味する。〔…〕この世界システムは 16世紀のあいだに出現し〔…〕、何世紀にもわたって拡大を遂げ、世界の他の諸部分をその分業体系の中に順次組み込んでいった。
東アジアは、そのような組み込みの対象として最後に残された主要地域であった。東アジアの組み込みは 19世紀の中葉に起こり、それを経て近代世界システムは〔…〕地球全体を包み込む最初の世界システムと〔…〕なった。〔…〕
1789-1989年の2世紀間をとって〔…〕みると、近代世界システムの〔…〕本質的現実が見えてくる。そしてここでも、東アジアは注目すべき役割を果している。それは、世界システムの政治的安定化という話である。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『新しい学』,2001,藤原書店,pp.81,85-86. .
「フランス革命は、その文化的インパクトによって、資本主義の〔…〕世界システムを変容させた。」フランス革命からナポレオン戦争までの時期が残した最も重要な持続的影響」は、①「進歩」の思想と②主権在民という「2つの基本的主題が、初めて広範に受容され〔…〕たことである。」「既存のシステムにおいて特権を受容していた人びとは、」これらの考え方が広がることを食い止めたいと考え、「その影響の封じ込めを画策」した。「保守主義」「自由主義」「急進主義」という「3つのイデオロギーが、封じ込めの様式として登場」した。
①「進歩」の思想とは、「革命」のような政治上の変化は「本質的に正当である」という考え方であり、②主権在民とは、「国家の主権は〔…〕人民に宿っている」、非民主的体制に「道徳的正統性などない」という考えである。どちらも「既存の権威のすべてを脅かすものであ」り、「革命的で危険な考え方〔…〕であった。」
そこで、「保守主義」は、「そのようなポピュリスト的価値」を「単純に真っ向から拒否」した。「自由主義」は、硬直した単純な拒否は「自滅的」であるとして、むしろ「そのようなポピュリスト的〔…〕価値を理論的には正当〔…〕と認めつつ、」実際に実現するさいには「ペースを落とす」ことで「うまく誘導してやる必要があると論じた。」そして、これらのポピュリスト的要求に対して、「合理的な実施には、専門家による媒介が必要である」と言って、じょうずに宥 なだ めた。「急進主義」は、「自由主義」とは逆に、「転換を急速に進める」ことによって「社会生活の不安定化につながる〔…〕大衆的圧力をせきとめ」ようとする考え方である。「大衆」とは、時として過激に跳ね上がるくせに、ともすれば現状維持に傾く厄介な代物である。このような「大衆」の性質を逆利用し、彼らが付いて行けないようなスピードでの変化を強制して引きずってしまおう、というわけだ〔レーニンの「戦時共産主義」、ヒトラーによるナチズム、毛沢東による「文化大革命」など、この種の実践例は珍しくない〕。
革命的現代京劇映画「紅色娘子軍」(1972年)。「紅色娘子軍」は、
「文化大革命」中 1961年以来何度も劇映画化され上映された。
これは「京劇」版の映画化。 ©Wikimedia.
これら「3つのイデオロギーはすべて、〔…〕国家の政治権力の獲得をめざし、〔…〕国家権力を用い〔…〕て」おのおのの「政治的目的を追求した。結果として行政機構,国家機関の実効活動領域,および政府が行なう法的干渉の範囲は、持続的かつ深刻に拡大」した。(保守主義の場合を除いて)そのようなことを正当化する論理は、①「進歩」の思想と②主権在民という「大衆的に認知された」2つの基本的「価値の実施に求められた。」
3つのイデオロギーのなかでは「自由主義」が、「長期にわたって――正確に言えば 1848-1968――」他の2つをおさえて支配的位置を占めた。
しかし、この・「世界システムのジオカルチュアにおける自由主義の勝利の時期」〔1848-1968〕は、同時に、「旧左翼の誕生、勃興、〔…〕勝利の時代でもあった」。この「旧左翼の面々は、彼らの目標が反システム的であると、すなわち〔…〕今回こそ真に、〔…〕自由・平等・博愛〔…〕に到達するのだ、と常に主張していた」。
「フランス革命の諸価値」すなわち ①「進歩」と②主権在民の思想が「大きな広がりを見せた一方で、現実の世界における広範な不平等の拡大は、大衆諸力の政治的な組織化を〔…〕極端に困難なものにしていた。」それでも「19世紀の後半には」反システム運動のなかに「官僚構造――労働組合,社会主義及び労働者政党,ナショナリズム政党――がゆっくりと形成されてきた。」これらの「反システム的な諸組織は」、〈不平等の拡大によって分断された大衆〉の組織化という・困難な課題を徐々に切り拓いていくために、「戦闘分子の幹部〔社会主義政党の一部では「前衛」と呼ばれた〕を創出し」、それら幹部は、大衆を「動員して団体行動を起こ」す活動に、とりわけ、大衆に対して「政治的行動のための教育を行なうことに専念した。」(pp.86-89.)
これ↑が、世界システムの「中核」領域と一部の「周辺部」で起きていた事実でした。当時、日本で起きていた「自由民権運動」は、これと比べ、なんと牧歌的な運動だったことでしょう。それでも、①「進歩」と②主権在民の思想、すなわち「世界システムのジオカルチュア」は、確実にこの・世界システムの「最周辺部」にも及んでいたのです。
『同時にこの時代〔19世紀後半――ギトン註〕は、世界経済の最後の大きな地理的拡大期にあたっていた。その過程には、東アジアの組み込みも含まれていた。それはまた、世界システムの』外延部が、「組み込み」によって『直接的な政治的服属のもとに置かれた最後の瞬間――アフリカ,東南アジア,太平洋の植民地化――でもあった。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『新しい学』,2001,藤原書店,p.89. .
辛亥革命(1911年)。青天白日紅旗と赤十字旗を掲げて行進する革命党。
1911年10月頃か。場所不明、武漢か。 ©Wikimedia.
この時期の『諸要素――ヨーロッパおよび北米での労働者階級の実質的な組織化と〔…〕議会政治への参加、ヨーロッパの労働者階級にたいする〔…〕利益分配の始まり、ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の支配の絶頂――をまとめて考えると、ヨーロッパの労働者階級にたいして自由主義が施した三重の政治的プログラム(普通選挙,福祉国家,ナショナルなアイデンティティの創出――白人人種主義と結合〔…〕)が、なぜ 20世紀の初めまでに、これらヨーロッパの危険な階級を手なづけることができたのか、〔…〕理解するのは〔…〕容易〔…〕である。
「東洋 オリエント」が、世界システムにおける政治的存在として姿を現したのは、まさにこの時であった。1905年、日露戦争において日本が勝利したことは、ヨーロッパの拡張が巻き返しを食う〔…〕最初の徴候であった。1911年の辛亥革命は、〔…〕中華の国の再構築の〔…〕始まりを告げるものであった。〔…〕東アジアは、組み込みの最後の対象であった一方で、ヨーロッパの勝利主義を転覆する過程を始めた最初の主体でもあった〔…〕
自由主義者は、この非ヨーロッパ世界という「危険な階級」を飼い馴らすための戦略として、19世紀に〔ギトン註――ヨーロッパの労働者階級の手なづけで〕成功〔…〕した戦略をもう一度遂行しようと再び勇を奮った。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『新しい学』,2001,藤原書店,pp.89-90. .
【3】 「日露戦争」と「辛亥革命」
――どうとらえるか?
ここでウォーラーステインが、東アジアについていきなり出してくるのが「日露戦争」だというのは、正直言って面喰らいます。「辛亥革命」は良いが、「日露戦争」はよろしくない。しかも、“アジアの勃興” みたいな触れ回しで出してくるのは。。。。現代アメリカの最高の知性はこんな程度かと、失望したくなります。出すにしても、↑上のような “日の丸ちょうちん持ち” ではない、別の説明が必要です。
氏の「世界システム分析」の枠組みに沿って考えてみると、 日本の場合、「組み込み」の特殊条件を、まず考えてみなくてはならないでしょう。
ペリーの横浜上陸。ハイネ原画、石版図。 横浜開港資料館蔵。
その一つは、組み込む側のヨーロッパ諸国が、経験を重ねて賢くなっていたことです。日本に対しては、とくに「オスマン帝国」を組み込んだ経験がモノを言ったと思われます。ペリー提督は、それを「不平等条約」というセットにして持参していました。ムチだけではない。巧妙な飴も用意していた。ペリーは、幕府の役人たちを、横浜沖の艦上に招待してもてなし、フォスターを中心とするアメリカン・カントリー・ミュージックで魅了しました。アメリカではマイナーなフォスターが、日本では(たぶん)今でも小学校の音楽の教科書に載っているほどポピュラーになった由来は、ここにあります。しかも、歌っただけではない。ペリーの水兵たち(みな白人)は、顔と手足を真っ黒く塗って、黒人に扮して踊ったのです。招かれた幕府の役人のなかには、舞台に飛びこんで一緒に踊った者もいたといいます。こうして彼らは日本人に「人種差別」を教え込んだのです。これこそは、「危険な階級」を飼い馴らす戦術の最新ヴァージョンでした。
しかし、それはあくまでエピソードです。「不平等条約」のもとで、日本の「組み込み」過程は、さしたる抵抗もなく急速に進展しました。わずか2港が開港された当初〔1854〕から、西洋人には生糸が売れるという噂がひろがり、安政条約〔1858〕以後は、しだいに多くの町や村が生糸を生産して開港地に持ちこみました。他方で、輸入物産にたいする嗜好も貪欲でした。一例を挙げれば、はじめ、横浜の商人は、西洋人から、最新の合成樹脂であるベークライトの塊を買い、これを、従来の鼈甲 べっこう 職人に加工させた簪 かんざし を売っていました。飛ぶように売れたのは当然です。鼈甲などろくに見たこともない庶民には、本物と区別がつかないモノが、十分の一以下で買えるのですから。ところがまもなく、もっと安く売る業者が現れました。この業者は、ベークライトの塊を削るのではなく、熱成型して簪にして売ったのです〔ベークライト樹脂は熱硬化性だが、前段階のノボラックは熱可塑性なので、半製品ノボラックを輸入して熱加工していたと思われる〕。こうして、鼈甲職人は用済みになりました。
瓦版に描かれたペリー艦隊の蒸気火輪船。安政条約以前か。横浜開港資料館蔵。
重要なことは、生糸にしろ合成樹脂にしろ、日本の側に製造過程の一工程が移植されたことです。こうして、日本の社会は「資本主義的世界システム」に、しっかりと組みこまれました。明治期に入ると、生糸の製造工程から官制・機械制大工場が誕生しました。明治国家による「殖産興業」の先に、移植された「産業革命」と官業払い下げがあり、「江華島事件」による朝鮮開国の強要、「日清戦争」、「日露戦争」と続きます。
「日露戦争」は、すでにドイツとアメリカに追い上げられていたとはいえ・金融と軍事では並ぶ者のなかった旧ヘゲモニー国家イギリスが、新入りの周辺部であり・ヨーロッパ列強の最も弱い環であるロシアの上昇を牽制する運動であったと言えます。日本はといえば、「日英同盟」のもとで、その実行役を担当するとともに、東アジアからのロシア勢力の追い出しと朝鮮の植民地化に、この戦争を利用したにすぎません。
結果的には、「世界システム」の最周辺部で、先に組み込まれた国家が、近傍の国家の「組み込み」に手を貸し・その独占的支配を狙う・という複雑なサブ構造(sub-structure)を生み出しました。
ところがその一方、大きな誤解の結果として、あたかもこれが、非ヨーロッパのヨーロッパに対する反システム運動の勃興であるかのようなイデオロギーを生み出したのです。この思想の勃興に功績があったのは、当時実際に植民地からの独立をめざして運動していたインドの独立運動家たちであり、彼らの感化を受けた一部の日本人思想家(岡倉天心『日本の目覚め』など⇒:戦前の思考から(8))でした。
しかし、彼らの「大アジア」イデオロギーは、「フランス革命」の場合よりも、現実とイデオロギーとの懸隔が大きかったのです。 「日露戦争」は、日本国内的に言えば「殖産興業」と「富国」政策の結果であり、「自由民権運動」家の大部分が「国権」に吸収されて朝鮮・満洲侵略の尖兵となった結果だったと言えます。彼らは、朝鮮の一部の改革派と組んで、侵略の下地となる改革政変をしかけていました。その・ある意味での結末が「閔妃虐刹事件」〔1895〕であり、これに衝撃を受けた朝鮮王室が保護を求めたロシアを駆逐して、朝鮮から主権を奪う意図が「日露戦争」には籠められていました。
「閔妃虐刹事件」を惹き起こした日本人マフィアの末裔――内田良平ら――は、昭和期に入ると日本軍国ファシズムにも参加しています。ある意味で、「日露戦争」がまとった「反システム性」は、「大東亜戦争」という形で頂点に達したと言えるでしょう。
これに対して「辛亥革命」のほうは、ともかくも「帝政」を倒した民衆革命という外形を持っており、それを主導した孫文らの思想的内実〔三民主義〕においても、「フランス革命」の祖型に沿うものだったと言えます。
しかし、孫文の思想以上に注目すべきは、民衆運動を「革命」に押し上げるきっかけとなった「鉄道国有化反対運動」です。それは、一面では、清の《帝国》体制に対する・民族ブルジョワジーの抵抗運動ですが(通常の評価は、こちらでしょう)、参加した民衆の側では、海外金融と結びついた鉄道建設事業や「産業革命」そのものに反対する側面がなかったでしょうか。そのような方向性は、まさに「資本主義的世界システム」に対抗する「反システム運動」の方向性であったと言えるでしょう。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!