1919年ドイツ革命ミュンヘンでは、レーテ(評議会,=ソヴィエト)が

実権を握り、社会民主党政府を追い出して「バイエルン・レーテ共和国」樹

立を宣言した。旧バイエルン王国宮廷の女王の寝室で会議を開く「レーテ」

のメンバー。インテリから下層まで、さまざまな職業の人が参加している

1919年4月6日。 ©literaturportal-bayern.de.

 

 

 

 

 

 

 

 

【1】 試されるレーニン,試されるウェーバー

 

 

 訳本のタイトルは『試される民主主義』となっていますが、原題は「論争する民主主義 Contesting Democracy」‥‥ 20世紀民主主義の特徴を表わしています。



『20世紀ヨーロッパの政治思想を、冷戦に捉われない視点から俯瞰しようとする野心作である。ヴェーバーからシュミット、ハーバーマス、ハイエクまで思想家を次々と登場させる手腕は見事だ。

 論点は多岐にわたるが、軸となるのは民主主義。19世紀の課題が自由主義だったのに対し、20世紀は大衆をどう捉えるかが最大の焦点だったからである。』

西崎文子/朝⽇新聞掲載:2019年09月07日.  

 


 「冷戦にとらわれない視点」と評されるように、本書では、ウェーバーの政治思想の説明のなかにレーニンが登場し、レーニンの “共産主義国家” 建設を描く記述にウェーバーが登場する。1917年10月にレーニンが敢行したのは、「革命」でも「クーデター」でもなく、たんに、権力のまったくの空白――空き巣状態に侵入して、国家を盗み取ることだった。レーニンの配下が襲撃した「冬宮」には、「若干の士官学校生と女性大隊」しかいなかった(p.62)。皇帝一家は疎開先で、赤ん坊の手をひねるようにして把えられ、密刹された。“暴力” というほどの “暴力” でさえなかったのです。権力をまんまと簒奪したあとで、レーニンらの “暴力” が向かった主な “敵” は、「ロシア帝国」ではなくロシアの大衆でした。

 

 レーニンは、彼をロシアに送り込んだ「ドイツ帝国」に・ロシアを屈服させて終戦条約を結んだだけでなく、権威主義的なドイツの官僚制をロシアに移植して、「社会主義」官僚制国家を打ち建てました。ドイツのその「官僚制」こそは、ウェーバーが批判してやまなかったものでした。迷信的魔術から脱却した「合理的」支配という・「官僚制」の近代的長所・を生かしながら、その没価値的頽廃をどうやって防いでいくかが、ウェーバーの生涯の政治的課題だったのですが、レーニンはこれを、独裁的な「前衛党」の強力な指導で克服できると思い込んでいたのです。

 

 1919年、オーストリア社会民主党連立政権の財務大臣となったシュムペーターは、その前年にウィーンの「カフェ・ラントマン」でウェーバーに会い、「革命後ロシア」の「社会主義実験」に好意的な関心を表明してウェーバーと口論になります。そのエピソードは、こちらの末尾で述べました。第1次大戦の直後は、ヨーロッパ各国で旧い帝政・王政が倒れて「民主主義」の時代となり、シュムペーターのような経済的自由主義の唱道者までもが、社会主義による政治体制の変革に注目していたのです。まもなくシュムペーターは、オットー・バウアーマルクス主義者の影響下にあった政権に迎えられます。


 「民主主義」の輝かしい将来に希望を託した時代は、しかし、決して長くは続きませんでした。

 

 

第1次世界大戦の終結を歓ぶパリ市民。Parisians celebrating the end of W. W. I, 

November 11, 1918. ©U.S. Signal Corps  / Library of Congress.

 

 

 

【2】 20世紀:前半から後半へ

―― 試される民主主義(序章)

 


 「20世紀は〔…〕、政治思想というものが例外的に重要な役割をはたした世紀」であった。政治思想が、著名人でも政治家でもない・これほど多くの人の運命に影響を与え、銃刹,戦タヒ,流浪といった非日常を余儀なくした時代が、他にあっただろうか?「20世紀は〔…〕[イデオロギーの時代]と捉えられることが多い。」そこで言う「イデオロギーとは、社会改善の理念や設計図への情熱的な、それどころか狂信的な信仰を意味する。」(p.3.)

 

 20世紀には『知識人や政治指導者だけでなく、一般の男女が、難解な書物に含まれたイデオロギーの多く(とそれによって正当化された〔ギトン註――将来の〕諸制度)を、彼らの問題への真の解答と見なしていた〔…〕。たしかにイデオロギーは、〔…〕救済をもたらすことさえ期待されていた〔…〕〔ギトン註――共産主義,社会主義,ファシズム,ナショナリズム等の〕イデオロギーの名のもとに作られた制度〔…〕が、救いようもなく時代遅れだと思われた自由主義の諸制度よりも、はるかにすぐれた機能を発揮すると、多くのヨーロッパ人は信じていたのである。〔…〕なぜ、どのようにして、イデオロギーがこれほどまでに魅力的たりえたか、を改めて』問うことが『われわれには必要である。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.4. .  

 

 

 読み進むにつれて、「試される民主主義」という訳題は、この本の内容を原題よりもよく表現していると思うようになりました。大戦間期のヨーロッパについて、私たちは、イギリス,フランス,ドイツ,ロシアくらいしか知りません。イタリアのムッソリーニのファシズムが、どのようにしてファシズムになったのかも、よく知らない。この本を見ると、第1次大戦直後に各国で成立した議会制民主主義が、20年代の繫栄をへて行き詰まりに逢着し、次々に民主主義を捨てて伝統的権威主義体制に戻っていく、あるいは新たなファシズム体制を創り上げてゆく。その経過がよくわかるのです。英仏独露だけでなく、オーストリア,トルコ,ポルトガル,イタリア,スウェーデンといった国々が重要です。

 

 

『大衆民主主義のもとでは、大衆的正当化(もしくは大衆的正統化)が何よりも必要になってくる。〔…〕全く新しい政治主体の創設、たとえば「人種的またイデオロギー的に純化された国民」であるとか、社会主義の唯一つの「前衛党に忠誠を捧げる人民」とかを正当化することも必要になってくる〔…〕。ひとたび王朝の〔…〕正統性の伝統的な捉え方が第1次世界大戦を機に広く信用を失ってしまうと、政治支配の正当化は、従来と違ったものにならざるをえなかった。〔…〕

 


イタリア・ファシスト党の支持者らにあいさつするベニト・ムッソリーニ

Benito Mussolini (centre, on horseback) saluting Fascist Party supporters

 in 1927. ©AP images / Britannica.

 

 

 第1次世界大戦後のヨーロッパ〔…〕、新しく作られた民主主義の多くが、1920年代から 30年代の間に破壊されてしまい、多くのヨーロッパ人の眼には独裁体制が明確な将来の道と見えるまでになっていた。けれども、議会制自由民主主義を声高に否定し〔…〕た政治的実験であっても、民主主義的な諸価値の目録は利用した。〔…〕国家社会主義〔ソ連――ギトン註〕にしても、他方のファシズムにしてもそうであった。自分たちこそが本物の民主主義なのだと主張したのである。たとえば、ジェンティーレGiovanni Gentile:1875-1944. イタリアの哲学・教育学者でファシズムの創案者――ギトン註〕はアメリカの読者に対し、「ファシスト国家は人民の国家であり、その点で一段と優れた民主主義国家なのだ」と説いている。

 

 〔…〕両体制とも、民主主義に連なる共通の価値の完全な実現を約束していた。〔…〕実質的な平等,あるいは政治的共同体への真の包摂,〔…〕運動への政治参加,わけても〔…〕集団的政治主体の創造――浄化された民族や社会主義的人民――などである。〔…〕そうした抽象的な価値に向けられた情熱こそが、自由民主主義からの大がかりな脱出を活気づけ、政治的に大きな役割を果たしたのである。

 

 〔…〕極端な反自由主義体制が行なった〔ギトン註――これら↑の〕「民主主義の公約」の大部分が、嘘っぱちだった、〔…〕しかし、こうした政治体制が「民主主義の公約」をトップに掲げざるをえないと感じたのはなぜか、と問うことも〔…〕重要である。彼らのレトリックは、参加の要求をもはや無視できない時代〔…〕のもとで生じた。〔…〕

 

 それは、政治論争が民主主義の意味をめぐって深刻に争われた時代だったのである。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.5-8.  

 

 

 20世紀後半、つまり第2次大戦後には、↑以上とはまったく異なる「民主主義」が主流を占めました。それは、「戦後民主主義」と呼ばれたりもする。が、戦前の民主主義の単なる復活ではなかった、とミュラーは言うのです。「20世紀後半に西欧は何か新しいものを創造したのである。それは、憲法裁判所のような非選出制度によって強く制約された民主主義体制であった。立憲主義の精神は、無制限の人民主権という理想とは対立〔…〕するものであった。しかも、こうした新制度」は「、自由主義の伝来の政治言語によって正当化されたものではなかった」。

 

 

連邦憲法裁判所(ドイツ、カルルスルーエ)。 ©Wikimedia.

連邦憲法裁判所は、ボン基本法(憲法)9,18,21条等に基づく幾つかの判決により、

自由主義国家体制を力で変革するファシズムなどの言論と活動を積極的に弾圧する

「戦う民主主義」の原則を確立した。うち、1952年の判決で「ドイツ共産党」と

「社会主義帝国党(ネオ・ナチ)」の活動を禁止、56年の判決で両党の解散を命じた。

 

 

 つまり、「戦後民主主義」は、戦前のファシズム体制と、戦後も残っているソ連型社会主義国家体制という両翼への対抗を意識していました。「無制限の人民主権」の危険性を何よりも恐れ、議会主義・間接民主主義の堅持と、民主的選出によらない裁判所の権限拡張(民主的国家機関との分立・均衡)によって「民主主義を制約することで、ファシズムをも社会主義化をも防ごうとしたのです。「自由で民主的な基本秩序」の破壊をめざす言論・結社等を権力で禁圧することを憲法に明記した西ドイツの体制(「戦う民主主義」)が、典型的なものでしょう。アメリカ合州国(と、その影響下の憲法を持つ日本など)の場合は、司法裁判所に、違憲立法審査の強い権限を事実上許容し、裁判所が、国民のなかから上がる反システム的な要求に少しづつ譲歩することで、支配体制の正統性を維持する、という戦略を取りました。「民主的福祉国家〔…〕は、市民に安全と〔…〕平静を供給することによって、ファシズムの復活を阻止する意図で進められたものである。」これらは、ある意味では「自由主義」の制限でもあったが、ある意味では、19世紀的な「選良の自由主義」への部分的回帰でもあった。


 ただ、「福祉国家」という・あたかも社会民主主義のような戦後「自由主義国家」体制の外観にもかかわらず、それを押し進めたのは社会主義政党でも社会民主主義政党でもなく、中道保守勢力(日本の自民党,ドイツのキリスト教民主同盟)であったことは注意されてよい。「西欧の戦後の和解体制は、どちらかといえば、キリスト教民主主義勢力が先頭に立つ穏健保守勢力の仕事だった。」

 

 20世紀も 70年代以後になると、「1968年の反乱」「新自由主義」という2つの動因によって、「戦後民主主義」は衝撃を受け、大きな修正を余儀なくされます。「68年」は、「戦後の憲政秩序〔…〕制約された民主主義に対し、根源的な挑戦状を突きつけた」が、「政治制度の変化はほとんどもたらさなかった。」しかし「長期的に見ると、」戦後の憲政秩序は、「68年」の影響のもとに「深い社会的・倫理的・〔…〕政治的変化」を受けていることは否定できません。「家庭や大学における尊敬・服従文化と権威的上下関係の終焉や、〔…〕自らの身体」の「決定権を獲得した女性ならびに同性愛者の登場」です。(pp.8-11.)

 

 以上は、2011年発行の本書の記述ですが、現在では少し補足する必要があるかもしれません。すなわち、2010年代まではたしかに、「68年」と「新自由主義」の影響が民主主義体制に浸透して行ったのですが、現在では、むしろそれらの影響を排除する動きが目立っています。が、それによって「戦後民主主義」に戻るわけでもない。現時点で変化の行く末を見極めることは困難ですが、おそらく、「戦後民主主義」とは大きく異なる(あるいは、民主主義ではない)別の体制への転換が始まっているように、私には感じられます。

 

 

 

【3】 19世紀の「自由主義」と 20世紀の「民主主義」

 

 

 第1次世界大戦が終る 1919年の 1月、ウェーバーはミュンヘン大学の学生組合に依頼されて、『職業としての政治』という題で講演しています。「脱魔術化」された世界とウェーバーが呼んだ世界、「宗教や形而上学」その他人間の行為や社会的活動に「意味」を与える源泉「すべてが懐疑に曝される世界」において、「責任ある政治行動と安定した自由主義体制は、どうしたら実現可能なのか」というのが、ウェーバーの提題でした。「ウェーバーは、先例と慣習に依拠した伝統的正統性が消えつつあり、ヨーロッパ人が民主的な時代に突入したことを確信していた。」そのような「大衆民主主義」の時代に、19世紀のような自由主義的な責任ある政治、国家にも国民にも責任を負うことのできる政治家の行動は、はたして可能なのか?

 

 「君主のカリスマ」は、ヨーロッパの君主たちの無能を「露呈させた戦争の惨劇によって「消え去った。」ここに「君主のカリスマ」とは、ナポレオンのような・個人の資質に伴なうものではなく、君主という「血統」ゆえのカリスマ、「血統」が正しいから当然に優れているのだと、大戦前には人びとが信じていたカリスマのことです。そんな魔術は、大戦の塹壕の中で霧消していました。また、神聖ローマ皇帝を戴く「ハプスブルク帝国のように、民族や宗教を異にする構成員がひとつの政治的連合体の中で平和的に共存するという信念も消滅した。ウェーバーにとって、民主主義は、同質的な国民国家の中でしか実現しえないことは」明白だった。

 

 

ウェーバーが「職業としての政治」(1919年)で使用した

講演メモ。©Wikimedia. ©Haus der Geschichte

 Baden-Württemberg, Sammlung Leif Geiges.

 

 

 つまり、19世紀の自由主義的な国家体制には、それを可能にする社会的な条件と国際的環境があったのです。「20世紀ヨーロッパの政治思想の展開を理解するためには」、19世紀の自由主義的な諸思想、「その根底をなす諸前提のうち、どれが第1次世界大戦後に信用を失墜し〔…〕たのかを理解するとよい。」(pp.18-19.)

 


ウェーバーの思想は、19世紀的な自由主義の頂点、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイク〔…〕「安定の黄金時代」と呼んだ時代に形成された。1942年、ツヴァイクは、〔…〕戦前〔第1次大戦前――ギトン註〕の「理性の時代にあっては、過激なもの、暴力的なものすべてが不可能だと思われた」と回顧している。彼の同世代の人びとは第1次世界大戦以前にはまだ若く、比類なき楽観主義と、世界への信頼を抱いていた。より多くの自由へ、そして「真のコスモポリタニズム」へと向かう途上にあると考えられた世界〔への信頼――ギトン註〕を。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.20. .  

 

 

 

 

 

 

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