鐘の無い鐘楼。滋賀県大津市 浄土真宗本願寺派 本福寺 ©honpukuji-hamaotsu.

戦時中の「金属供出」で、梵鐘が供出されて以来「今日まで、

大きな石が吊るされた状態になっています。」

 

 


 

 

 

 


【16】 「相対的に民主的で平等主義的なシステム」

―― 効率,分配,欲望

 

 

欲望〔…〕は非常に精神を蝕む感情であるが、現在の〔ギトン註――資本主義システムはそれを助長し〔…〕称賛する。なぜならば、システム欲望に報いる〔慾を出すほど儲かる――ギトン註〕からである。もし欲望〔…〕道徳的に抑圧され、対抗的価値〔聖人,清浄といった――ギトン註〕がわたしたちの超自我に組みこまれてくるとしたら、』そのような『社会は自由ではありえないと、わたしたちは本当に主張しているのであろうか。』

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,p.123. .

 

 

 「‥‥主張しているのである。」と私は断言します。

 

 ここには、かなり大きな問題が提起されていますが、ウォーラーステインは明確な回答を与えていません。資本主義企業の販売戦略が、私たちの欲望を刺激して、必要のない物まで欲しがるようにさせている面があるのはたしかですが、それだけではありません。マルクスは、生産力が増大すれば、それに応じて欲望が増大すると言っています。

 

 私の考えは、ウォーラーステインとは逆で、資本主義であろうとなかろうと、生産力が高まれば欲望は増大する。それを抑圧しなければならない理由はない、ということです。ただ、「無限の資本蓄積の優先」という絶対原則が弱まれば〔儲ける努力をしなくなれば、欲望は緩和する〕、社会秩序を危機に陥れるほどの欲望の鬱積は無くなるでしょうから、超自我を肥大させて抑圧する必要性も減る、と期待してよいのではないか。

 

 いずれにせよ、「欲望」という人間の本源の問題に、社会システムによって対処しようというのは、私の考えでは無理な話です。資本主義に付きものの投機的投資やギャンブルも、禁止して急にゼロにしてしまうことはできないでしょう。そういうことも、心理感覚としては「自由」の要素なのです。いま「資本主義世界」を危うくしているのは、利潤獲得・資本蓄積の「優先」なのですから、それだけを絶対的に優先することが問題なのであって、他の諸価値と並んでそれらを追求する人がいても、さしあたって問題はないと思うのです。

 

 そういうわけで、私はウォーラーステインとは違って、“社会変革” のために抑圧を強める必要があるとは考えません。いま以上に「自由」が広がってよいと思います。

 

 上↑の部分に続いてウォーラーステインは、「ある人は、慈愛〔慈善や施し?〕欲望を償いうるという。しかし、慈愛は、欲望」を無くすわけでも減らすわけでもない。「慈悲深い貢献は、それが神への〔…〕贈り物ではなく、正義の要求から生じる義務として遂行されるときに、真の慈善〔…〕をあらわす」と書いています。しかし、私は、この部分にも賛成できません。おそらく、私たちとは文化と歴史的経験の相違があるのでしょう。

 

 この文脈で私たちが真っ先に思い浮かべるのは、

 

 「欲しがりません、勝つまでは」

 

 という標語と、それを国民に信じさせた・あの抑圧体制です。当時の「道徳」では、侵略戦争の遂行は「正義の要求」であったし、そのために欲望を「がまん」することは国民の「義務」でした。日本じゅうの寺院の梵鐘を、兵器を造るために供出するような「慈悲深い貢献」は、「正義の要求から生じる義務として遂行されるとき」にこそ、戦慄すべき害悪をもたらすのです。このような体制は、なんとしてでも避けなければならない。

 

 

代替梵鐘。長野県のどこか。 ©x.com / FromMalibu. 梵鐘供出されたあと、

各地の寺では、鐘楼の倒壊を防ぐため、大きな石,コンクリ詰めドラム缶などを

吊るした。この鐘楼は、現在もその状態のまま、撞き棒が石に対している。

 

 

 「効率的であるのは、好ましい現象であるが、それは何かの目的のための手段である。」「資本主義世界経済システムでは、「資本蓄積」拡大・利潤極大化の手段として「効率」が追求される。「効率」が大きければ大きいほど、生産性は上がり、労働コストは節約され、得られる利潤は大きくなる。

 

 しかし、それとは違って、食糧として小麦を増産する、国内のインフラ建設のために鉄やコンクリートの生産を増やす、といった「目的」のために「効率」を追求することはできないでしょうか? もちろん、できます。どのようにして? これらの産物にたいする社会の「必要を満た」した、あるいはその「分配を拡大」したことにたいして「報酬」が与えられるならば、それらの生産や「機構の運営を担当する人々が効率的に働かない〔…〕とは〔…〕思えない。」

 

 「資本主義システム」の場合には、その「報酬」は、金銭〔利潤,賃金,等〕のかたちで「市場」から与えられます。その場合、小麦,鉄,コンクリートといった現物は問題にならず、「効率」への貢献の大きさも、それにたいする「報酬」の大きさも、金銭の額のみで評価されます。

 

 このようなシステムは、さまざまな矛盾をはらんでいますが、たとえば、「大企業の経営者」が「小さな町の建築技師や自動車修理工」よりも、格段に大きな「報酬」を与えられるという不均衡があります。「大企業の経営者」の仕事ぶりが、「自動車修理工」よりも常に《効率的》だなどということが、ありうるでしょうか?「報酬」が「効率」を高めるためにあるのなら、「報酬」の大きさは「効率」に比例していなければならない。しかし、「資本主義システム」では、それは達成不可能なのです。

 

 そうすると、いま、どんな新たな「システム」が「資本主義システム」に取って代わることができるか、という問いは、この「効率」と「報酬」の関係を、「市場」に代わって、あるいは「市場」とともに、伝えてゆくことができるのは、どんな「組織」か、――という問題が、そのカナメにあることがわかります。

 

 「国家」だけが・その「組織」でありうる、と最初から根拠なく決めつけたのが、歴史上の「社会主義国」体制だったと言えます。その結果は、権威主義,特権集団の支配,非能率など、さまざまな欠点となって現れました。そこで、これから「経済組織」について考えてゆくさいには、「組織」は「国家」とは限らない、むしろ非国家組織を基本にする〔場合によっては、弊害を無くせる/減らせるのなら、「国家」でもよい〕――という前提を置く必要があります。(pp.123-124.)

 

 


【17】 「相対的に民主的で平等主義的なシステム」――

中規模,非営利的,分権的な組織

 

 

『大きな組織は、小さな組織よりも、効率的なのか。〔…〕それは基準次第である。〔…〕いずれにせよ、現在のシステム資本主義世界システム――ギトン註〕では、生産活動の規模が、生産効率よりずっと多くの働きをする。それは、租税と規制の回避〔…〕,独占の利益を利用し、危険負担を世界経済〔…〕拡張期へと転嫁することによる利益を利用する。これらすべては、無限の資本蓄積の優位という〔ギトン註――資本主義システムを成り立たせている基本的な〕考えを除外すれば、消え去る問題である。

 

 効率だけを考えれば、経済行動の規模は〔…〕多様なものとなるだろう。疑いなく、巨大な組織がほとんどなくなるだろうし、〔…〕現在のシステムに存在する〔…〕不可避な規模増大――世界的資本蓄積の集中と・その結果としての所有権や組織された機構の集中――に代わって、数多くの中規模の組織が存在する〔…〕ことになるであろう。』

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,p.125. .

 

 

マイクロソフト(Microsoft Corporation)本社。ワシントン州レドモンド。

The west campus of Microsoft, Redmond, Washington. ©Wikimedia.

 

 

 経済学には、「規模の経済」という考え方があって、経済組織は規模が大きいほど「効率的」だと私たちは考えがちです。しかし、それは根拠のある思い込みではありません。近代経済学の初歩の教科書――たとえば、サムエルソン『経済学 上』――を見てもらえば解りますが、生産曲線には最大値があって、経済組織は一定の規模を越えるとかえって非能率になるのです。

 

 ところが、実際に現在の資本主義経済では、どの企業も規模を大きくすることに専心しています。しかし、これは、規模が大きいほど「効率的」だからではなく、大規模な組織は「効率」以外の要素で優位に立っている、それが現在のシステムの構造であるからです。

 

 したがって、「カオス」後〔2050年頃以後!〕の新たなシステムでは、この傾向は変わるだろう。「中規模の組織」が主流になるだろう、とウォーラーステインは言うのです。

 

 規模の問題に加えて、「あらゆる経済組織は非営利な組織であり、しかも非国家的管理」が自由に「非常に広範に用いられ〔…〕る選択肢である」ような体制(システム)は、考えられないだろうか。

 

 

『わたしたちは、今日まで数世紀のあいだ、このシステム〔…〕非営利の病院〔日本の「生協病院」や「協同病院」の類?――ギトン註〕〔…〕で経験してきた。それらは、〔ギトン註――ふつうの営利的傾向の〕民間病院や州立病院よりも〔…〕非効率で・医学的魅力がないのだろうか。わたしの知る限り、まったくそういうことはない。〔…〕このことがどうして病院に限定されねばならないのか。〔…〕非営利の電力会社〔※〕はありえないのだろうか。〔…〕

 

 今日の趨勢は、病院〔…〕さえも、利潤をめざす』営利企業を『モデルにする方向に向かっている。〔…〕このことは、〔…〕現在のシステムの基礎にある万物の商品化の結果なのである。それは、効率を改善しているのか。〔ギトン註――患者のみならず医師,職員の〕健康管理を改善しているのか。』営利企業をモデルとする病院改革は、『健康管理に要する費用を』節約しようとするだろう。『これまでの健康管理費用は資本蓄積に振り分けられる〔…〕。そういうことは本当に好ましいのか。

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.125-126. .

 註※「非営利の電力会社」: 3・11福島原発事故を引き起こした「東京電力」は、営利主義のために安全をおろそかにして堤防を高くしなかったために事故を惹き起こしたと云われ、判決でも認められた。が、それだけではなく、官僚主義的な隠蔽体質(津波以前に、原子炉容器が地震の「揺れ」そのものに耐えられないものだった事実等の隠蔽)が事故の大きな要因となっている。組織の規模が大きいことや、準国営であること(事故を起こしても、あらゆる損害を国に補填してもらえる)がこれに寄与していると思われる。「非営利」のみならず、「組織の規模」「非国家」など様々の要素が検討される必要がある。


 

 以上のように、ウォーラーステインは、「未来のシステム」においても「効率性」が確保されることが必要だと考え、それを主要な課題の一つとして検討しています。これはたとえば、斎藤幸平氏の「生産力至上主義」批判・「低成長・無成長」容認論などとは対照的です。

 

 私は、ウォーラーステインのような考え方は、現在でも必要だと思っています。というのは、経営者サイドの人がしばしば主張するように、〈営利企業には、営利を追求するがゆえの合理性・公正さを実現しうる面がある〉からです。それは、社会が・腐敗した官僚主義に陥るのを防ぐ/緩和する効果があります。が、それは「営利」の効果ではなく「効率」追求の効果である、というのが、ウォーラーステインの見解なのです。

 

 

1980年9月、ポーランド・グダニスクのレーニン造船所で、檀上に立ち演説するレフ

・ヴァウェンサ(ワレサ)。独立自主労働組合「連帯」の創設が決定され、ヴァウェ

ンサが議長に選出された。ヴァウェンサは、共産主義国における反体制派の指導者

として評価され、1990-95年にはポーランド共和国大統領を務めた。© imidas.jp.

 

 


【18】  「相対的に民主的で平等主義的なシステム」――

経済組織,ネットワーク,市場

 

 

 前節では、「未来のシステム」が資本主義から離れる場合に、毀損されないかと心配される2つの価値のうち、まず、「効率」を主要な論題として考えてきました。ここからは、もう一つの問題:自由」を論題として、ひきつづき「経済組織」について考えていきます。

 


『そこで、オルタナティヴなシステムのありうべき基礎として、わたしが提案する第1の組織的要素は、システム内の基本的な生産様式として非営利分権的な単位を設けることである。それは効率に対して現在のシステムと同じ――あるいはたぶんそれよりも大きな――刺激を与えることであろう。〔…〕そのことは、〔…〕国家機構を通じた集中が、実験や多様性を見込みのないものとし、徐々に独裁主義的な意思決定と官僚的怠惰〔…〕につながる、という恐れを回避することになるだろう。

 

 しかしそれでもまだ、 これらの単位がどのように相互に関係し、 何を基礎にするのか、という問題は残っている。さらに、職場民主主義と呼ばれる問題、つまり  これら生産単位内の組織問題は扱われていない。

 

  多面的で非営利の生産企業体は、どのように相互に調和をとるのだろうか。たぶん〔…〕レッセ・フェールの理論モデルにいう方法、つまり市場を通じてであるが、それも真の市場を通じてでなければならない。『現在システムにある独占的に管理された世界市場によってではない。

 

 私たちはある種の調整〔たとえば、国家や,公的な国際機関による――ギトン註〕を必要とするだろうか。混雑した道路における交通信号に類似の何かを必要とすることは疑いない。その調整では、生産計画に従事する代理人〔ソ連の計画経済当局のような――ギトン註〕『必要はない。調整は、詐欺行為を抑え、情報の流れを改善し、過剰および過小生産に警告を発することに限定されるものだろう。

ウォーラーステイン,・松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.126-128. .

 


 このあたりは多少の疑問を持たざるをえません。古典経済学が描いたような「市場」の調和的機能は、じっさいには成立しないと、ウォーラーステイン自身が述べているからです。それでも、「調整」のための介入は、交通信号のような・「警告を発する」程度のものに限るのだと言う。だとすると、市場――つまり「価格シグナル」――とともに機能するという・「情報の流れ」と彼が呼ぶ機構: それは、一体どのようなしくみによって、生産・流通・消費組織の相互の連絡を行なうものなのか? 重要な問題は、そこにあると思われます。しかし、この「情報の流れ」についてウォーラーステインは、まだ具体的なプランを持っていないようなのです。

 

 

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』(1859年)。

 

 

 つぎに検討されるのは、「非営利の生産単位」の内部での民主主義は、どのようにして確保されるのか、という問題です。

 

 

労働者の利益と生産者の利益とは、今まで同様に異なる〔ギトン註――つまり、対立する〕かもしれない。労働組合、あるいは〔…〕労働者の集団的な利益を代表する組織との〔…〕交渉様式〔おそらくストライキ等を含む――ギトン註〕が非常に重要であり続けるだろう。〔…〕労働者による〔ギトン註――企業〕トップの意思決定への参加は〔…〕実行される必要があるだろう。

 

  労働者が、生涯の利益を損なうことなく・雇用組織のあいだを自由に動く方式が確立される必要があるだろう(つまり、生涯の利益は、生産組織〔…〕の外部で、何らかの機関〔社会保険組合のような――ギトン註〕によって付与されねばならないだろう)。労働者が〔…〕満足できる〔ギトン註――転職先の〕雇用を見つけられるように保障する〔…〕機構に加えて、〔ギトン註――産業部門ごとの〕労働力の規模を生産の必要に適応させる方法を発展させる必要がある。

 

 最後に、本当の怠惰や不適格を罰するシステムが構築されねばならないだろう。

 

 わたしたちは長期にわたって、これらの〔…〕方法の細部について〔ギトン註――じっさいに実行・運営しながら〕議論することになるだろう。』しかし、その議論がどんなに混み入ったものになるとしても、無限の資本蓄積によって動かされ〔…〕ない〔ギトン註――新しい資本主義的な〕世界システムの枠内においては、善意の人々が』討論と検証と譲歩によって解決できないような〔…〕障害〔…〕はないということが重要『である。』

ウォーラーステイン,・松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.128-129. .

 

 

 ウォーラーステインは、 に関しては「市場」の機能を補う程度の限定的な介入を予想していましたが、 の労働者組織、および  の・個人の「職業選択の自由」の保障に関しては、かなり強力な・公的機関の介入が必要だと考えているようです。ウォーラーステインは、「発展させる必要がある」という言い方をしていますが、(世界)経済全体の過不足ない分業と、個人の「自由」とを調和させるのは、なかなか困難な課題ではないかという気がします。

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ